シャネルのキャリアはまず1908年25歳で開いた帽子店に始まります。上流階級の女性が多く訪れ、店は繁盛します。
そして2年後の1910年に、高級ホテル「リッツ」の裏側にあるカンボン通りに「シャネル・モード」という名前で帽子店の営業を始めます。
それから、誰も思いつかなかった発想でシャネルは新しいものを創り出していきます。
当時男性の下着として使われていたジャージーで女性の服を作り本物の宝石と偽者を混ぜ合わせたイミテーションジュエリー(それまでは貴金属以外で作られたアクセサリーはほとんど存在していませんでした)、それからあまりにも有名な香水「No.5」。化学合成品を混ぜたこと、そのネーミング、シンプルなラベルとボトル。すべてが革新的でした。この香水の大ヒットによって得た富をシャネルは芸術活動の援助に惜しみなく注いでいます。
喪服でしか使われなかった「黒」をドレス(俗にいう「リトル・ブラック・ドレス」)に仕立て上げたのもシャネルです。
機能性を求めるシャネルらしい「ショルダーバッグ」さらには現在のような形の原型でもある「(プッシュアップ式)リップスティック」も彼女の発想から生まれました。
シャネルはデザインやファッションについて勉強をしたり、有名店などで修行などをしたことはありませんでした。しかしなぜこれほどまでに、革命的で既成概念にとらわれずにいられたのでしょう。
その疑問に答えてくれているような彼女自身の言葉があります。
「私はなにより、嫌いなものを作らない」
1935年シャネルの店の従業員は4000人に達し、全盛を極めていました。しかし、時代の流れによるストライキや第二次世界大戦勃発、そんな時勢を察知しシャネルは香水・アクセサリー部門だけを残し3000人の解雇を断行し、1939年カンボン通りの店を閉めてしまいます。
その後スイスへ移住。8年間パリを離れますが70歳になって戻ってきます。
その翌年の1954年カムバックコレクションを開きますが、フランスのマスコミに酷評されます。しかしアメリカではシャネルの提案したシンプルでエレガントなスタイルが絶大な人気を持って受け入れられます。
それによってフランスでも再評価されモード界での地位を再び確立します。そして87歳で死ぬまでシャネルは働き続けます。
彼女は、仕事ができない日曜日と祝日が嫌いだったそうで、亡くなった日はその日曜日でした。
亡くなった時、クローゼットにかかっていたのはシャネル・スーツが二着。
これはまさしく生前の彼女の言葉のとおりでした。